2011.3.11日本は、

東日本大震災を経験して何が変わったのでしょうか?

そして、次第にあの時の切迫感をも

忘れつつある日本人の心の中で、

今何が残っているでしょうか。

 

 

 

その日テレビ報道された中で、特に忘れられない光景がありました。

今まさに津波に飲み込まれたばかりの母親を、呼び続けている女の子の光景です。

言葉も出ない衝撃的な光景でした。

同時になすすべもない自分の無力さを痛感しました。

──孫正義氏もその報道を見ていたようです。

 

 

 

大自然の驚異の前では、人の力は余りに無力です。

神に祈るしか他に無いかもしれません。

 

 

 

 

 

 

大津波の後に起きた原発総電源喪失、

そしてメルトダウン、水素爆発、放射能の放出。

これについてはどうでしょうか?

 

 

 

福島原発事故は、自然災害ではなく「人災」であると

国会事故調が、報告書の中で指摘しています。

 

 

 

原発事故に関しては、

私のような無力な人間でさへ、もしかすると「原発反対」や、

不十分な災害想定への糾弾を、矢面で行動出来たかも知れません。

それによって、

原発の安全性がより堅牢なものになっていて、

今回の福島のような事故もぎりぎり防いでいたかも知れません。

原発事故については、

私の力が及んだ可能性があったと考えるのです。

 

 

そのことは今も私の中で、

後悔と慚愧の念が沸き起こってきます。

政治的発言を敬遠してきた大人達にも、重大な責任があるのです。

 

 

 

野田首相による大飯原発の再稼働の決断は、

経団連等や電力側の意向が大きく働いていると思っています。

最大供給電力の数字の件でも、

そこに「規制の虜」(後に出てきた言葉)の関係が働いていると、

初めから疑って見ています。信用など出来ません。

 

──「規制の虜」(きせいのとりこ)とは、規制される側とする側の立場や力関係が逆転してしまっている状態。電力会社には何十年もその道で培われてきたスペシャリストが生まれてきているが、規制する側の役所の方は2・3年で交代するため、経験や知識の面で電力側にかなわないという構図が出来上がっていた。そのために立場が逆転し、電力側に都合の良い恣意的な安全基準や引き延ばしが公認されるという経緯をたどるようになった。

 

 

 

 

彼らは長年の制度に問題があり、個人の責任を明らかにする必要は無いと言う。

本文を読めば、東電側の恣意的な不作為は歴任の責任者にかかることがわかります。

経済産業省や保安員・安全委員会に責任があることは当たり前です。

しかし、「人災」だと決めていながら個人に責任は無いと主張するこの事故調の報告は、

完全な第三者委員会の報告とは思えません。

そもそも大飯原発再稼働の前に事故調の報告は出せたはずです!

 

 

 

つまり第三者委員会としての格調は整えてはいるものの、

最終段階で政府寄りの立場や発言をしていることは、隠しきれないのです。