近江商人 ── 初代 伊藤忠兵衛 ② 【伊藤忠商事100年】

【伊藤忠商事100年】(昭和44年10月1日刊行)より

明治26年 伊藤糸店開店当時の風景

「初代忠兵衛の篤い信仰心は、かつて九州への持ち下り商いをしていたころ、福岡にある真宗西本願寺派の古寺・万行寺の住職であった七里和上という高僧から、親しく仏の教えをうけたことがベースになっています。」(HPより)

筆者注)忠兵衛の仏門は、浄土真宗「西本願寺派」である。朝な夕な全員で唱えた他力の教えとはどのようなものであったのであろうか。

【参 照】 http://www.gobosama.net/gendaigoyaku/index.html 正信念仏偈の現代語訳++++++

 

 

 

 

3 大阪へ進出

 

 

⑴ 「紅忠」の開業

 

太陽暦の採用とともに

 

明治5年<1872>1月  大阪本町二丁目に呉服太物商を開店し、屋号を「紅忠<ベンチュウ>」と定めた。時に彼は30歳で、取扱品は麻布全般、尾濃織物、関東織物を主力にした。

この年、太陽暦が採用された。持ち下りが開国とともに始められ、その転換が太陽暦の実施と同じであった事は、なんとなく暗示的である。富岡製糸所が初の官営工場として設立されたのもこの年で会った。

店舗には、本町通りの中橋筋東にあった、九里庄治郞氏所有の家屋を借り受けた。ここは当時呉服街であった伏見町から離れていたが、将来の発展を予期してこの場所を定めた。支配人として番頭羽田治平※を登用した。支配人制は、この時に始まる。

 

※当時他の持ち下りをしていた羽田治平は、2歳年少の忠兵衛の才覚に感じ、彼の将来に期待して進んで身を託し手代となった。治平は後に紅忠大阪店の初代支配人を務めた。後年忠兵衛は治平の心意気を喜び、そのために京都堺町に縮緬<ちりめん>商を創立し、経営の安定を見て、これを治平に与えてその労に報いた。羽田商店<現羽田有限会社>

 

近くの本町通堺筋東には、同業の先達「稲西屋」<彼と同業の稲本利右衛門 西村重郎兵衛 両家の合資経営>があり、盛大に営業されていた。関東織物の取り扱いでは同店がすでに国内随一であった。忠兵衛と店員達は、この店を努力目標とした。

 

本町は、その後彼が予期した通り、呉服街に変わり、伏見町の呉服商も続々ここへ移った。古老の語る所によると、彼は「船場の太閤さん」と呼ばれたそうであるが、維新の激変で混乱する大阪へ進出して、いち早く業績を上げたのを称えた言葉であろう。この頃大阪の代表的商人であった加島屋左兵衛 天王寺屋五兵衛 炭屋安兵衛などが相次いで倒れている。銀目立ての停止、株仲間の廃止、商法大意の施行、旧藩債の処分など、我が国の経済が激変した時代であった。

 

 

⑵店法と 利益3分主義

 

開店と同時に店法が決められた。当時としてはあまり例の無い事であった。忠兵衛は、店員の権限と義務を明らかにし、若い店員に至まで、それぞれの持つ能力を引き出す事につとめた。さらに会議制度も取り入れている。

人を信じ有能な者は思い切って登用する人材育成は、彼の生涯にわたる重要な事業経営精神であった。事実まだ20歳にもならない若い店員が、尾濃や武甲に派遣され、巨額の取引を任されていた。想像を超える広い自由裁量が許されていたが、それが当然の事のような店内の空気であった。この伝統は初代忠兵衛の事業だけで無く、二代忠兵衛を経て当社に受け継がれ、今なお独特の社風を生み出している。

最初の店法は、明治8年10年11年と続いて改められた。さらに同26年にはこまかく成文化され、その後も情勢に応じて種々の改正が加えられた。

利益3分主義もまた彼の特色のある事業経営の方針であった。これは店の純利益を、本家納め、店積み立て、および店員配当に均等に配分する方法であった。その後明治26年資本金を増額し店法を改正したときからは、同年の改正店法にもあるように、本家納め5、本店積み立て3、店員配当2の割合となった。なお、このように店員と利益を分かち合った事は、当時としては大変進んだ考えであったと言えよう。実際彼ほど店員を愛した経営者は少ないと思われる。彼は「1人の息子を育てるよりも100人の息子を育てたい。それが商売繁盛の本道だ。利益はまず従業員の幸福に向け、明治10年までに1万両の別家<後記>を100軒作る」と、いつも家族や親しい者に語っていた。故田附政次郎氏も自伝の中で「伊藤忠兵衛氏のようにあれだけ多数の人を育て、産を分かつ事はなかなか出来ない事だ」と述べておられる。

 

このような経営理念の元に、互いに信頼し合う主従が勤勉と、節倹に徹して事業に励んだので、明治初期の一般経済の不況、沈滞時にも関わらず、紅忠は順調に伸びていった。

 

 

⑶店の新築と陣容

 

明治8年8月に店舗を新築した。場所は本町3丁目中橋筋西入る南側、前年求めた間口5間半、奥行き23間の土地に建設した。

これを中心にして、明治20年には西隣の六島発三郎氏の店を買収、さらに37年には東隣の土地200坪<質古着問屋 大庭宇右衛門氏の所有>を3坪1,000円の割で買い足して、本町3丁目中橋筋西南角を引き回した店舗になった。

 

 

⑷西南の役と紅忠の発展

 

ラシャ ビロード

 

熊本の神風連の乱、秋月の乱、萩の乱に続いて、明治10年2月には西南の役が起こった。発足間もない明治政府は財政難から紙幣を乱発した。為に貿易銀1円に対して、紙幣は2円6銭に下落した。一方戦後復旧の為、物資の需要が急増した。諸物価は急速な上昇歩調となり、大阪の商業はめざましい活況を呈した。この活況は14年頃までも続いて、紅忠の店頭は持ち下り当時からの得意先があふれ、これまでに無い盛況で会った。

そのころに輸入物のラシャビロードの取り扱いも始めた。紅忠は他の同業者に見られない成績を上げた。世人が忠兵衛を「大阪の西郷さん」と読んだことが記録に残っている。時に彼は35歳であった。

 

 

⑸役後の反動を予見

 

現金取引主義と 公債の売買

 

忠兵衛は西南の役後の反動を予想し、不況の対策を怠らなかった。取引の現金主義の励行と、金禄公債の売買と保有である。

 

当時の呉服物取引の商習慣は、現金仕入れと信用販売が常態であった。そのため問屋は不況に弱く、常に浮沈の危険に晒されていた。そこで彼は掛売の膨張を抑えるため、明治12年頃から現金取引を進めた。14年にはまだ盛況にわく店に、「取引現金主義」の大額をかかげて、厳しくこの主義を実行した。

 

その結果手元資金にゆとりが出来ると、これを公債の売買に振り向けた。明治12年から店員 田附源兵衛らを山陽、九州方面に出張させ、手広く公債の買い集めに当たらせた。この公債は、明治の改革で廃止された家禄 賞典禄に代わって、約313,000人に下付されたものである。額面100円、念1割の利付き公債を時価60~70円で買い集め、大阪の両替商 黒川幸七商店<現 黒川証券>へ売却して、利益を得ていた事が記録されている。

 

彼の不況対策は、まことに卓見であった。その鋭い見通しと決意断行などからおすと、忠兵衛の生涯のうちで、この頃が事業に最も油の乗った時期であったと考えれる。

 

明治13年 松方大蔵卿は不換紙幣の整理に手をつけた。19年の兌換開始に至まで、一連の厳しい財政緊縮政策で物価は大暴落した。明治17年不況はその極みに達し、1匹<約22メートル>21円見当であった伊勢崎嶌が6~7円の安値をとなえた。同業者のほとんどが大きな損失を受け、倒産は続出した。

 

紅忠は、幸い対策よろしきを得たため打撃を受ける事無く、かえってかなりの利益さえあげて、この大反動期を無事に乗り切る事が出来た。現金取引主義は、彼の事業だけで無く得意先をも損失から守る結果となり、非常に感謝された。

 

公債投資もまた、財産の保全に有効であった、その上これが機縁となって、彼は両替商 鴻池善右衛門、山口吉郎兵衛、黒川幸七氏ら、当時大阪財界を代表する仲間に加わることになった。

 

彼の事業経営はこの前後に於いてほぼ完成されたようである。年齢もまた不惑に近づき、彼の財界における地歩は次第に固まった。

 

 

 

4 伊藤本店と 営業の多角化

 

 

⑴京都に縮緬商を開く

 

明治15年 紅忠は開業10年を迎え、すでに異数の発展を遂げていた。

この年忠兵衛は、京都に縮緬商創設した。持ち下りを始めた時からの店員羽田治平の為である。

店舗は京都堺町通り六角下がる甲屋町に置き、営業上の名代人※を伊藤忠三郎、治平をその支配人とした。

 

※名代人制度について:明治維新から法人組織の無かった用事、営業上の名義者として、架空の人名を上げ、責任の帰属を示す習わしがあった。稲西屋における稲西庄兵衛、大丸屋における大丸清兵衛などもそれである。

 

 

 

翌16年京都店の営業が安定したので、これを・・・治平に与えた。忠兵衛が広く実施した「別家」は、これが第一号であった。

 

 

⑵紅忠を (筆者注:○に紅の印)伊藤本店と改称

 

明治17年1月<1884>紅忠を伊藤本店と改称した。この年の二代支配人として田附源兵衛が就任した。

店名改称は、次ぎに述べるように、新に設立した (□に紅の印)伊藤京都店との関連に於いて必要であった。これはまた、後に続く新事業進出への構想とも繋がるものである。なお同本店はその後大建産業にになるまで、約60年の間全丸紅はもちろんのこと、世間一般からも本店と略称されて、広く親しまれたのである。

 

 

・・・・・中略・・・・・