三方よし                  甚兵衛

天秤棒を担いで全国を行商した近江商人。その懐には道中の無事を願い、道中厨子を忍ばせていた。写真は明治に入り塚本源三郎が、後世の為に記録したものである。

 

「近江商人」とは、滋賀県に本拠地を置きながら他国で商いをした商人の総称として使われます。また近江商人の特質を「売り手によし、買い手によし、世間によし」の「三方よし」であるとも表現されます。

どの用語も明治に入ってから生まれた言葉で、江戸時代の当時に使用された形跡はありません。江州日野の商人、江州は八幡の商人などと呼ばれていました。三方よし、この用語があたかも近江商人を象徴する言葉として飛び交うようになりましたが、先輩が新人に「三方よし」を教え諭したというような光景は実際にはなかったのです。

三方よしと呼ばれるようになった原典は、江戸時代中期、近江の国神崎郡石馬寺村の麻布商、中村治兵衛家の二代目宗岸の遺言状であったと言われています。

 

宝暦4年(1754)11月、70歳を迎えた宗岸は「宗次郎幼主書置(そうじろうようしゆかきおき)」(挿絵)という遺言状を15歳という若い跡継ぎ養嗣子(ようしし)宗次郎の為に記しました。

 

【意 味】 たとえ他国へ商売に出かけても、自分の持ち上がった商品が、この国の全ての人々皆に気持ちよく着られるようにと、自分の利益ばかりを思わず、皆が良いようにと思い、高利を望まず、何事も天道の恵み次第と自然なりゆきにまかせて、ただひたすらにその行く先の人を大切に思わなければならない。そうすれば、心安らかで、健康 に暮らすことが出来る。常々、仏様の信心の行い、他国へ入る時に は、以上のような心がけが一番大切なことである。

『近江商人のふる里 五個荘散歩』東近江市観光協会パンフレットより

 

自分(売り手)の都合よりも相手(買い手)の都合を優先し大切にし、利益は商売が天の理にかなっていれば自然に出てくるものと考え天道にまかせ、常に神需仏の信心を行うことが他国行商に重要であると遺言しています。商取引に関し、売った方も買った方もそれぞれが満足し、また高い倫理性を心がけ実践していれば世間も評価する。そして社会全体が良くなるのが「三方よし」なのでしょう。次ぎに紹介する秩父事件では、地元在来の商人より他国からやってきた商人の方が信頼されたことが記されています。

 

<秩父事件> ────────────────────────────────────

秩父一帯は養蚕製糸産業が盛んで豊かな生活を営んでいたが、明治15年(1882)ごろから深刻な不況に直面し、多くの農家が高利の借金の返済不能におちいり、生活は非常に困窮していた。明治17年、秩父に自由党が結成されると、以前から活動をしていた上吉田村の農民らが困民党を組織し、自由党員とともに高利貸しへの返済延長や村民税の減税などを要求する秩父事件が勃発した。武装した一万人近い農民が、高利貸しや豪商を襲撃、郡役所や警察などを占拠したが、軍隊の出動で鎮圧された。  当時、近江商人の矢尾商店は秩父きっての豪商であったが、焼き討ちされることなく、逆に困民党から開店をすすめられた。その背景には、矢尾商店の日頃よりの商いが、地元の人々に理解され評価された結果に他ならない。外来商人である矢尾家が地元に受け入れられることに心を砕き、他国者意識を忘れず、身持ちをことさら気遣ったのは正しい配慮であったといえる。このことは今も矢尾家の企業の誇りとなっている。寛延2年(1749)矢尾喜兵衛は、奉公の後に独立したがこの時、奉公先から創業資金の借財をした。その後百年間、報恩を込めて毎年主家に納めたと言われる。矢尾商店は現在、矢尾百貨店グループとして秩父で地域一番店となっている。

(『近江商人に学ぶ』サンライズ出版編27P 2003.8.20)

 

「草津市立水生植物公園みずの森」にて甚兵衛撮影。

西洋ではプロテスタント。日本では主に仏教が商売の倫理としていきづく土壌があったと思われます。鎌倉時代以降の「仏教」と、「神道」「儒教」がつくりだした倫理観が、近江商人を今日に渡り数百年もの歳月永続させたのでしょう。

後年近江商人と呼ばれるようになった人たちの、倫理観の具体的なありようを探ることこそが、このブログの求めるところであり、現在への投影が可能かどうかの試みでもあります。

そしておそらく商売以外にも当てはまる重要な教えが、しだいに浮き出てくるものと予感しています。