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近江商人 ── 初代 伊藤忠兵衛 ② 【伊藤忠商事100年】

【伊藤忠商事100年】(昭和44年10月1日刊行)より

明治26年 伊藤糸店開店当時の風景

「初代忠兵衛の篤い信仰心は、かつて九州への持ち下り商いをしていたころ、福岡にある真宗西本願寺派の古寺・万行寺の住職であった七里和上という高僧から、親しく仏の教えをうけたことがベースになっています。」(HPより)

筆者注)忠兵衛の仏門は、浄土真宗「西本願寺派」である。朝な夕な全員で唱えた他力の教えとはどのようなものであったのであろうか。

【参 照】 http://www.gobosama.net/gendaigoyaku/index.html 正信念仏偈の現代語訳++++++

 

 

 

 

3 大阪へ進出

 

 

⑴ 「紅忠」の開業

 

太陽暦の採用とともに

 

明治5年<1872>1月  大阪本町二丁目に呉服太物商を開店し、屋号を「紅忠<ベンチュウ>」と定めた。時に彼は30歳で、取扱品は麻布全般、尾濃織物、関東織物を主力にした。

この年、太陽暦が採用された。持ち下りが開国とともに始められ、その転換が太陽暦の実施と同じであった事は、なんとなく暗示的である。富岡製糸所が初の官営工場として設立されたのもこの年で会った。

店舗には、本町通りの中橋筋東にあった、九里庄治郞氏所有の家屋を借り受けた。ここは当時呉服街であった伏見町から離れていたが、将来の発展を予期してこの場所を定めた。支配人として番頭羽田治平※を登用した。支配人制は、この時に始まる。

 

※当時他の持ち下りをしていた羽田治平は、2歳年少の忠兵衛の才覚に感じ、彼の将来に期待して進んで身を託し手代となった。治平は後に紅忠大阪店の初代支配人を務めた。後年忠兵衛は治平の心意気を喜び、そのために京都堺町に縮緬<ちりめん>商を創立し、経営の安定を見て、これを治平に与えてその労に報いた。羽田商店<現羽田有限会社>

 

近くの本町通堺筋東には、同業の先達「稲西屋」<彼と同業の稲本利右衛門 西村重郎兵衛 両家の合資経営>があり、盛大に営業されていた。関東織物の取り扱いでは同店がすでに国内随一であった。忠兵衛と店員達は、この店を努力目標とした。

 

本町は、その後彼が予期した通り、呉服街に変わり、伏見町の呉服商も続々ここへ移った。古老の語る所によると、彼は「船場の太閤さん」と呼ばれたそうであるが、維新の激変で混乱する大阪へ進出して、いち早く業績を上げたのを称えた言葉であろう。この頃大阪の代表的商人であった加島屋左兵衛 天王寺屋五兵衛 炭屋安兵衛などが相次いで倒れている。銀目立ての停止、株仲間の廃止、商法大意の施行、旧藩債の処分など、我が国の経済が激変した時代であった。

 

 

⑵店法と 利益3分主義

 

開店と同時に店法が決められた。当時としてはあまり例の無い事であった。忠兵衛は、店員の権限と義務を明らかにし、若い店員に至まで、それぞれの持つ能力を引き出す事につとめた。さらに会議制度も取り入れている。

人を信じ有能な者は思い切って登用する人材育成は、彼の生涯にわたる重要な事業経営精神であった。事実まだ20歳にもならない若い店員が、尾濃や武甲に派遣され、巨額の取引を任されていた。想像を超える広い自由裁量が許されていたが、それが当然の事のような店内の空気であった。この伝統は初代忠兵衛の事業だけで無く、二代忠兵衛を経て当社に受け継がれ、今なお独特の社風を生み出している。

最初の店法は、明治8年10年11年と続いて改められた。さらに同26年にはこまかく成文化され、その後も情勢に応じて種々の改正が加えられた。

利益3分主義もまた彼の特色のある事業経営の方針であった。これは店の純利益を、本家納め、店積み立て、および店員配当に均等に配分する方法であった。その後明治26年資本金を増額し店法を改正したときからは、同年の改正店法にもあるように、本家納め5、本店積み立て3、店員配当2の割合となった。なお、このように店員と利益を分かち合った事は、当時としては大変進んだ考えであったと言えよう。実際彼ほど店員を愛した経営者は少ないと思われる。彼は「1人の息子を育てるよりも100人の息子を育てたい。それが商売繁盛の本道だ。利益はまず従業員の幸福に向け、明治10年までに1万両の別家<後記>を100軒作る」と、いつも家族や親しい者に語っていた。故田附政次郎氏も自伝の中で「伊藤忠兵衛氏のようにあれだけ多数の人を育て、産を分かつ事はなかなか出来ない事だ」と述べておられる。

 

このような経営理念の元に、互いに信頼し合う主従が勤勉と、節倹に徹して事業に励んだので、明治初期の一般経済の不況、沈滞時にも関わらず、紅忠は順調に伸びていった。

 

 

⑶店の新築と陣容

 

明治8年8月に店舗を新築した。場所は本町3丁目中橋筋西入る南側、前年求めた間口5間半、奥行き23間の土地に建設した。

これを中心にして、明治20年には西隣の六島発三郎氏の店を買収、さらに37年には東隣の土地200坪<質古着問屋 大庭宇右衛門氏の所有>を3坪1,000円の割で買い足して、本町3丁目中橋筋西南角を引き回した店舗になった。

 

 

⑷西南の役と紅忠の発展

 

ラシャ ビロード

 

熊本の神風連の乱、秋月の乱、萩の乱に続いて、明治10年2月には西南の役が起こった。発足間もない明治政府は財政難から紙幣を乱発した。為に貿易銀1円に対して、紙幣は2円6銭に下落した。一方戦後復旧の為、物資の需要が急増した。諸物価は急速な上昇歩調となり、大阪の商業はめざましい活況を呈した。この活況は14年頃までも続いて、紅忠の店頭は持ち下り当時からの得意先があふれ、これまでに無い盛況で会った。

そのころに輸入物のラシャビロードの取り扱いも始めた。紅忠は他の同業者に見られない成績を上げた。世人が忠兵衛を「大阪の西郷さん」と読んだことが記録に残っている。時に彼は35歳であった。

 

 

⑸役後の反動を予見

 

現金取引主義と 公債の売買

 

忠兵衛は西南の役後の反動を予想し、不況の対策を怠らなかった。取引の現金主義の励行と、金禄公債の売買と保有である。

 

当時の呉服物取引の商習慣は、現金仕入れと信用販売が常態であった。そのため問屋は不況に弱く、常に浮沈の危険に晒されていた。そこで彼は掛売の膨張を抑えるため、明治12年頃から現金取引を進めた。14年にはまだ盛況にわく店に、「取引現金主義」の大額をかかげて、厳しくこの主義を実行した。

 

その結果手元資金にゆとりが出来ると、これを公債の売買に振り向けた。明治12年から店員 田附源兵衛らを山陽、九州方面に出張させ、手広く公債の買い集めに当たらせた。この公債は、明治の改革で廃止された家禄 賞典禄に代わって、約313,000人に下付されたものである。額面100円、念1割の利付き公債を時価60~70円で買い集め、大阪の両替商 黒川幸七商店<現 黒川証券>へ売却して、利益を得ていた事が記録されている。

 

彼の不況対策は、まことに卓見であった。その鋭い見通しと決意断行などからおすと、忠兵衛の生涯のうちで、この頃が事業に最も油の乗った時期であったと考えれる。

 

明治13年 松方大蔵卿は不換紙幣の整理に手をつけた。19年の兌換開始に至まで、一連の厳しい財政緊縮政策で物価は大暴落した。明治17年不況はその極みに達し、1匹<約22メートル>21円見当であった伊勢崎嶌が6~7円の安値をとなえた。同業者のほとんどが大きな損失を受け、倒産は続出した。

 

紅忠は、幸い対策よろしきを得たため打撃を受ける事無く、かえってかなりの利益さえあげて、この大反動期を無事に乗り切る事が出来た。現金取引主義は、彼の事業だけで無く得意先をも損失から守る結果となり、非常に感謝された。

 

公債投資もまた、財産の保全に有効であった、その上これが機縁となって、彼は両替商 鴻池善右衛門、山口吉郎兵衛、黒川幸七氏ら、当時大阪財界を代表する仲間に加わることになった。

 

彼の事業経営はこの前後に於いてほぼ完成されたようである。年齢もまた不惑に近づき、彼の財界における地歩は次第に固まった。

 

 

 

4 伊藤本店と 営業の多角化

 

 

⑴京都に縮緬商を開く

 

明治15年 紅忠は開業10年を迎え、すでに異数の発展を遂げていた。

この年忠兵衛は、京都に縮緬商創設した。持ち下りを始めた時からの店員羽田治平の為である。

店舗は京都堺町通り六角下がる甲屋町に置き、営業上の名代人※を伊藤忠三郎、治平をその支配人とした。

 

※名代人制度について:明治維新から法人組織の無かった用事、営業上の名義者として、架空の人名を上げ、責任の帰属を示す習わしがあった。稲西屋における稲西庄兵衛、大丸屋における大丸清兵衛などもそれである。

 

 

 

翌16年京都店の営業が安定したので、これを・・・治平に与えた。忠兵衛が広く実施した「別家」は、これが第一号であった。

 

 

⑵紅忠を (筆者注:○に紅の印)伊藤本店と改称

 

明治17年1月<1884>紅忠を伊藤本店と改称した。この年の二代支配人として田附源兵衛が就任した。

店名改称は、次ぎに述べるように、新に設立した (□に紅の印)伊藤京都店との関連に於いて必要であった。これはまた、後に続く新事業進出への構想とも繋がるものである。なお同本店はその後大建産業にになるまで、約60年の間全丸紅はもちろんのこと、世間一般からも本店と略称されて、広く親しまれたのである。

 

 

・・・・・中略・・・・・

近江商人 ── 初代 伊藤忠兵衛 ① 【伊藤忠商事100年】

次は、近江商人の実際の姿に近づくために、まずは初代伊藤忠兵衛の業績を出来るだけ詳しく見ていきましょう。

【伊藤忠商事100年】(昭和44年10月1日刊行)より

※タイプライターでカタカナ表記の為、ここではなるべく通常の表記にしました。

※印は、筆者による注、及び解説です。

1 伊藤家の家系と初代忠兵衛の生い立ち

⑴祖 先

 

湖国江州に代々生を受け継いだ伊藤家の祖先は、近江源氏とつながりを持つ半農武人で、いわゆる郷士であった。

滋賀県犬上郡豊郷村吉田の成宮家所蔵の古文書には、同村八目の伊藤家が、南北朝時代この地を領有していた京極家の将赤田信濃守の家臣であったと記されている。

嵯峨源氏の流れをくむ赤田家は戦国時代浅井家の武将となり、天正元年<1573>織田・浅井の戦いに敗れて野に下った。

伊藤家も領主に従って帰農し、以後徳川の末期まで平穏に過ごしてきたのである。

この地域は、中山道に沿っていて、今も街道筋には草葺き、入母屋づくりの家並みが残っている。

隣村の石畑は愛知川宿と高宮宿の中間にあり、いわゆる間宿<アイノシュク>として栄えた。これらの宿は早くから上方と東海・東山・北陸を結ぶ要衝として、上方商品の進出の足場となっていた。なかでも甲良・四十九院・高宮の市<イチ>は、近江麻布の集散地として市座の商人の集まる所であった。

このようにこの地区に商業がそだったのは、交通の要路であったほか、耕地面積が極めて少なかったことと、後の彦根藩の厳しい徴税が素因と言えよう。

 

⑵生い立ち

 

初代伊藤忠兵衛は、天保13年<1842>7月2日<新暦 同年8月7日>滋賀県犬上郡豊郷村八目、五代伊藤長兵衛の次男として生まれた。幼名栄吉。

生家は、「紅長<ベンチョウと呼称する>」の屋号で耳付き物<繊維品>小売商を営んでいたが、他に相当の田地を持ち、内1~2町歩は数人の作男を使って自作するという地主でもあった。

この地方は古く天平時代、僧行基の頃から仏教が盛んであったが、彼の生家は仏法一途の土地柄にあっても、特に敬虔な門徒宗徒であった。

こうした環境の内に、彼は父について漢字の手ほどきを受け、さらに隣村高野瀬の寺子屋青山平太夫師に師事しながら、家業を手伝っていた。

彼の自由な独立心とその帰結としての人間愛、あるいは質素と勤勉、そして進取革新の気性などは、仏教に対するその深い信仰に根ざしたものである。

このことは初代伊藤忠兵衛を語る上に、忘れてはならない重要なポイントとなる。

彼は11歳の時兄万治郎<後の六代伊藤長兵衛>に従って、東山越えに約15キロ隔てた五僧保月村<現犬上郡多賀町>へ行商に出かけた。

これは彼が自ら商品を売りさばいた初めての経験であった。

黒船の来航



この年嘉永6年<1853>は、米使ペリーの率いる黒船が浦賀に来航した年である。

 

彼はその後数年に渡って、春夏に保月その他の村へ単身近郷行商を行っている。

 

 

2 始祖の創業

 

⑴持ち下り業を始める

※「持ち下り」とは、京都から品物を地方へ商品を運ぶこと。逆に「持ち上り」は地方から都市部へ移送すること。

 

安政の開国とともに

安政5年初代は15歳、元服して忠兵衛以時<モチトキ>を名乗り、同年5月近江麻布の持ち下り業を始めた。その詳細については後に記すが、これが彼の進路を決めるとともに、生々発展して当社現在の活動と事業に繋がることとなる。

為に伊藤家の諸事業、ひいて丸紅飯田・伊藤忠商事は、この安政5年をもって創業の年と定めている。

安政5年は今を去る111年の昔である、この年我が国はアメリカ・ロシア・オランダ・イギリス・フランスの5カ国と修好通商条約を結んで、それまで堅く閉ざしてきた門戸を海外に開いた。開国は明治維新の導火線となり、欧米の文物を入れて近代的な文明開化にいたる発端となったことは周知の通りである。

初代忠兵衛は幕末開国と時は同じくして業をおこし、維新前後の波乱をよく乗り越えて店礎を固め、その後の我が産業貿易の進展とともに経営の拡大と多角化をはかり、海外への進出にも手を染めた。

 

 

──筆者中略──

 

 

さて元服した初代忠兵衛は荷持ち2名を雇い入れ、叔父成宮武兵衛に導かれて、その一行とともに郷里の八目から初の持ち下りにかしまだった。

商品は特産品の近江麻布類が主で、50両分ほど叔父から借り入れた。彼がとった経路は、隣郡の愛知川じりの湖岸<現稲枝村>薩摩浜から帆船で大津に渡り、逢坂山を経て京都三条高瀬川の船便を利用して伏見へ行き、そこから30石船に乗り換えて大阪の八軒家に着いた。

この年の梅雨期は多雨で、大阪の船場島之内辺りは大洪水の為に商勢が上がらなかった。そこで泉州の堺岸和田から紀州路まで足を伸ばした。さいわいこの初商いは期待以上の成果を上げることが出来た。

後年忠兵衛は自伝とも言える手記で、幼少から創業にいたるまでの模様を次のように書き残している。

 

「本家商業は、地商内<ジアキナイ>呉服太物小売商なるが故、我は近村に小売り行商を専らとし、商業の余暇は農事の助けを成せり。 中略 父曰く汝は次男なれば往々<ユクユク>兄弟同業成す能わず。早くも独立の商業につき渡世の道を立て分家すべしと。

茲に17歳<満15歳>にして行商の端緒につき西海に下り・・・・・<後畧>」とある。

 

長崎の風物に感あり

彼は最初の持ち下りで純益7両を得た。これで自信を深め、翌安政6年5月下旬西国持ち下りに旅立った。この時も叔父武兵衛の一行に同道。金100両を資本の一部として叔父から借り受け、岡山広島と商いを続けた。

商品にも麻布類の他美濃縞<綿織物>、美濃結城<絹綿交織>等を加え、道中は海路を選んで馬関<下関>まで足を伸ばした。そこで長崎の反映ぶりを人づてに聞くと、彼は道中の危険をおかして更に長崎へ回り、初めて外国貿易の実情に触れて大きな勘当を憶えた。それは彼にとっていわば神の啓示とでも言うべきものであった。



幕末の長崎港

後年彼は、「黒船、異人、外国商館、新商品・・・・・目を疑うばかりの驚きであり、いっぺんに日本が狭くなったように思えた。」と述べている。

これが初代、二代、更に現丸紅飯田、伊藤忠商事と、1世紀にわたる貿易活動の最初にして最大の機縁となったのである。

彼は北九州を商域とすることに決めた。広い土地に稔農作物と、地下資源・・・・・石炭の豊さ、長崎港の目を見張る賑わい、北九州地方一帯に潜む大きな購買力を、一目しただけで明らかであった。

この時の持ち下りで、彼は商い高200両純益30両余<米価を基準にすると現在の約70万円>を上げ、同年7月郷里へ帰り着いた。

 

 

独力で 本格的卸売り

万延元年<1860>持ち下り3年目に、彼は麻布800反を仕入れ、独力で長崎へ持ち下った。

さらに同年秋には美濃尾張の仕入れ先から、美濃結城と美濃縞を大量に仕入れ、豊前・筑前へ下った。

彼の手記によると、小売り小卸しを主としたそれまでの商売から、本格的な卸売りに発展する為、生産量も消費量も多い美濃織物を多く取り扱うことにしたのである。

 

 

この頃には事業としての形もやや整い、売り子の小川又七・丸橋清平の他、数名の荷物持ちを使っている。主人公の彼はまだ18歳に過ぎなかった。

この年は、藩主井伊大老が桜田門外に倒れ、薩摩藩は300年の伝統を破って参勤交代を拒むなど、忠兵衛の独力門出の年というのに、政情はあまりにも騒がしかった。政情不安に伴って、貨幣価値の下落による物価の騰貴が始まった。

ここで彼の手記を見よう。

 

「外国貿易下の比較より 金銀貨幣の位を変更し、保字小判一両は三両余の高位に及べり 朱歩金もこれに批准す 銀朱歩はこの限りに非ず。物価の騰貴はこの時をはじめとし 漸次二倍 三倍に騰貴したれば 人民困難の声喧<カマビス>しく 時の政治を恨むに至れり」

社会経験の少ない若者にこの変動は厳しすぎる試練であったが、彼は機敏に対処し、かえって予期せぬ利益を得た上、卸売業の将来も見極めて 凱旋将軍の意気で帰郷している。

この成功は、彼に十分な自信と必要な資力を与えた。

にわかに押し寄せた欧米先進国からの重圧、鎖国日本を覆ったかつてない政治経済上の不安と困難、しかし総て彼にはプラスであった。

外国貿易の開始につれて経済情勢は激動し、物価は高騰したがこれらに対処した彼の経済的判断力は、1世紀後の今日でも尚高く評価されよう。

彼の成功は、決して単なる請うんでは無かったのである。

ことに彼の当時の年齢を思えば、その才覚と実行力は非凡なものであった。

 

 

⑵ 地盤の拡大

 

販路の拡張

 

文久元年<1861>忠兵衛は、19歳の春を迎えた。過去2年間の経験と地盤をもとにして、本業を「九州持ち下り」と定めた。

従ってこの年の持ち下りは、ひどく意欲的であった。商品の仕入れ数量も非常に増え、販路は馬関、小倉、筑前芦屋、博多、久留米、柳川、佐賀などの各地に及び、更に手代を豊前の行橋 中津から豊後路にまで派遣している。積極経営は、順調な成功を収めた。とはいうものの、新しい卸売り地盤を開拓する苦心には想像を超えるものがあった。

 

 

栄九講<エイクコウ>へ加入

 

徳川時代の中期以降、国内商業の面には色々な形の制度や組織が生まれた。栄九講は、地域的に限られた一つの同業組合形態であった。イギリスのギルド、ドイツのツンフト・・・・・などとその例は外国にも見られる。

栄九講は、九州の最北部<筑前豊前の北部>に販路を持つ呉服太物類の持ち下り業者の組合で、今の滋賀県神崎愛知両郡地域の商人が主体であった。いきおい講員以外の持ち下り商人の排斥は厳しかった。

新参の忠兵衛は、もとより講の組合員で無かったが、あえてその商域へ切り込んだ。彼の手記を見ても意気込みがよく窺える。

 

「然るに従来、江州持ち下り仲間栄九講と称する一種の組合ありて、数十年以前よりの商人多くして九州有名の地は、彼らの占有地の如き趣きありて新持ち下り商人を大いに排斥するのみならず、講外商人とて問屋の引請<荷受け>を拒み大いに迷惑を感ぜし事あり  実に当時の姑息  念ひ出せば笑止とや 謂はん のみ・・・・・」

 

数十年もの間既得権に安住していた組合員にとっては、忠兵衛のこうした急進では大きな脅威であり、ことごとに彼の活動を押さえようとした。

しかし彼は新参の商人を集め、その代表となってただ1人小倉の旅館で栄九講の10数人を相手に話し合いを行った。彼の熱情と正論には、先輩組も遂に折れ、新規参加が認められた。その翌年には、新講員の忠兵衛が栄九講全体の代表に推されている。

 

 

呉服ものの取り扱いを加える

 

文久2~3年<1862~1863>幕政の改革が始まり、世の中は目まぐるしく変わった。来るべき明治維新への動きが急に高まってきたのである。物価も激しい動きを示したが、彼の果敢な処置で事業はかえって伸びを示し、夏は麻類、秋は美濃結城などのほかに、新に関東呉服<八王子及び甲州産の絹織物類>の取り扱いを始めた。関東呉服類の取り扱いは、後に彼の事業のうちで最も重要な部分を占めるまでになったが、それはこのように、幕末の混乱する経済情勢の中で始まっている。

文久2年9月28日父伊藤長兵衛が62歳で死去し、しきたりに従い兄万治郎が六代伊藤長兵衛を襲名し家督を継いだ。

 

 

兄と利益折半の約定

 

彼の事業の利益は年々増加して行ったが、本家である兄の家業の収益はあまり増えなかった。数年の持ち下りによって得た彼の利益は、先祖代々の蓄積である兄の財産、すなわち地方の小旧家としての面目を保ってきた家督財産をすでに上回っていた。

元治元年<1864>彼は兄長兵衛から利益折半の協議をうけこれを承認した。彼の手記には次のように書かれている。

 

「我利益は年々増進し本家収得は 増進尠く 既に 我利益の 積斗<斗は当時 計の略字>は、5~6年間にして本家の身代を超過せり。為に家兄 長兵衛より 当分利益合併論を協議に預かり 之を承諾せり。当時左の如き契約書を双方店卸帳に記載せり。

契  約  書  写

当子年より卯年迄  四ヶ年間  旅方<忠兵衛のこと>と 本家  商内と 一所に 致し

のび金一躰に して 弐つ割 約条の事              以上」

 

 

⑶長州征伐の前後

 

商機と 忠兵衛の 結婚

 

長州藩による蛤御門の変、イギリス・フランス・アメリカ・オランダ・連合艦隊の馬関砲撃などで、慌ただしかった元治はわずか1年で慶応<1865>にかわった。

長崎・横浜・函館の開講条約は勅許されたが、慶応2年には早々に薩長の同盟が成立し、長州は風雲急な時局における台風の目となっていた。そのため防長へは他国からの出入りが禁じられたが、馬関に限り商人の出入りが許された。

忠兵衛はこの機会をとらえた。同年5月に麻布1万反余を持ち下り、防長の需要が集中する馬関で、約10日のうちにそのほとんどを売り切った。わずかの残品を九州で捌いて、再び代金回収の為馬関へ引き返すと、折からの長州征伐である。

 

「六月上旬 防長売掛代金 請求のため 博多より 船にて 帰関の 海路 彦島沖まで来たりし。 折柄 法螺 陣鐘の 声に 何事ならんと 船首に 上り 遠望するに 数千の軍勢 甲冑にて 隊を 整へ 小倉より

門司田ノ浦に 進軍の 形情を 目撃しつつ 船は 無事に 馬関に着せり」

 

長州軍の優勢で商況も良く、集金ははかどったが、長州代官から忠兵衛が泊まっていた問屋平井清助方へ通達があり、旅人を馬関におくことも、船を出す事も禁じられた。

忠兵衛はやむをえず同地に近い皿山にあった空き家を借り受けて、同宿客10人ほどとともに40日あまりをここで過ごす事になった。

1,500両を超える程の売上代金を持っていたので、この間随分気を使ったが、折よく同郷の中井嘉兵衛氏ら3名が長崎から彦島に寄港した。そこで、所持金をこれに託して無事郷里の兄へ届ける事が出来た。戦いが終わるとともに通行の自由も回復し、9月には郷里八目へ帰った。母や家族の喜びは言うまでも無かった。

慶応2年10月、彼は成宮武兵衛氏の媒酌で、同村四十九院の、藤野惣左衛門長女幸<ノチ シュウトメノ 名ヲツイデ やゑ ト改名>と結婚した。

新婚の喜びも数日、忠兵衛は仕入れのため尾濃、京都へ向かった。そして前年の倍量を買い入れて、同じ10月のうちに再び馬関へ下った。

馬関には戦乱後の好況をねらって、江州、京阪から多数の商人が売り込みに来たが、多くは成果を収める事が出来ず、更に九州へ転じていった。しかし忠兵衛は、すでに信用ある地盤と得意先を持っていたので、ほとんど同地方で売り尽くす事が出来た。

当時持ち下りは、商品流通面に於いて重要な役割を果たし、西国方面のみならず、関東その他とも盛んに行われていた。しかし政治経済の激変下に、遠隔地取引を行う持ち下り商の浮沈は極めて激しく、脱落する者も多かった。

 

初代忠兵衛は

 

「余が 商業に 従事せし 以来 今日まで 未曾有の 利益を 得たる 者なり・・・」

 

と自ら記しているように、この厳しい時期を巧みに乗り切って、中国、九州地方に地盤を築き、飛躍的な業績の伸張を成し遂げたのである。

 

 

防長に 蚕糸製造法を 入れる

 

防長地方との商売から派生して、たまたま忠兵衛は山口に蚕糸業を導入することになった。後に彼はこれを長く語り草にしていたが、そのいきさつを彼の手記から拾おう。

 

「防長は 旅人の 入国を 禁ぜられしも 千戈 治まり 少しく 寛なるに より、山口に行かんと 欲し 彼の地の問屋 寺田矢兵衛に 之を 策りしに、当時 上より 国内に 蚕業製糸の勧業を 奨励あるの 際なれば、是に関係者たる 真似して 寺田氏より その筋に 出願 なせしを以て 入山することを 許されたり。ここにおいて 近江長浜より 製糸婦人 五名を当山口に 引き寄するの 周旋をうけ、その運びを為したり。」

 

当時の江州北部にはだるまびきの生糸製造技術があった。そこでこれをあてにして「私も製法を知っているから女工員と同時に技術も導入する」として、寺田氏を介し許可を取ったのである。彼の機知と実行力が窺えて面白い。

 

 

兄弟事業の 合体と 分離

 

兄長兵衛は、家業の「紅長」がしだいに時勢に遅れたため、慶応3年にこれを廃業し、弟忠兵衛の持ち下りに加わった。

この事業の合同から、のちさらに兄の申し出により、財産までも合体するに至った。

その時も、忠兵衛の財産は兄のものよりも数倍大きかった。

 

「然るに 地商内<兄 紅長ノコト>利益 満足ならざるが 故 慶応年中 廃業し これに於いて 我が持ち下り商と 利益共同のみならず、全躰を 合併し 為に取引上 忠兵衛の名を 止め 長兵衛となし来たれり」

 

慶応3年、約270年に及んだ徳川幕府はついに大政を奉還し、親政日本が復活した。

慶応は明治となり、多くの制度と習慣が一新される中で、兄弟共同の持ち下り業が続けられた。

しかし、このような状態は長く続かず、兄の申し出により、明治3年<1870>兄弟はそれぞれ独立し、その結果忠兵衛は長年の得意場を兄に譲った。

 

「各 之が 経済を明にせざるを得ず ここに於いて得意場を分割する事左のごとし。

一、本家得意場 馬関 長府 豊前 筑前

一、分家得意場 萩 山口 及 宮市以西 厚狭市迄

以上

前記の如く区劃<クカク>せしと雖<イエドモ> 分家得意場は その区域 狭小なるが故に 売残品に限り 長府 馬関迄に 至 事を得

右の通り 契約せる 者なり

明治3年2月 両名」

 

 

持ち下り営業を 譲って 大阪進出

 

明治4年<1871>も変化の激しい年であった。廃藩置県、藩債整理などで商況はさえなかった。

彼の事業も新得意場が狭かったこともあって、めぼしい業績を上げる事が出来なかった。

将来を良く見通し、決断と同時に行動を起こすのが彼の身上<シンショウ>であった。旅先で彼は次の手記にあるような3案を考え、すぐ兄長兵衛と落ち合って相談した。

 

「倩々<ツラツラ>該<ソレ>持ち下り商の将来を按ずるに、我得意場の狭小なる区域内にては見込み無き故、断然意を決し方針を転せんとするの念 勃興せり ここに将来の計画に付き望む事三

一、本家の得意場と定めたる馬関を我が得意場に譲り受け、本家は九州へ拡張する事

一、新に 大阪に開店し 持ち下りを止める事

一、防長州の 外に 芸備州に 持ち下りを 拡張する事」

 

しかし 兄は馬関地区の返還に応じないで、大阪進出をすすめた。彼の方針は決まった。

「仍りて 大阪開店 為す 事に 断然 決心したり。是れ明治4年11月下旬 周防 宮市町<現防府市>市川安兵衛方に 於いて 集議 決定せし 者なり」

 

とその間の事情を詳記している。決定に従いすぐ博多の行町にあった出張所も兄に譲り、残品は広島尾道で売り切った。帰途 開店の準備もかねて大阪に立ち寄り、西横堀の回漕<回船>問屋「松庄」に草鞋を解いた。郷里八目へ帰ったのは、12月30日であった。

大阪進出は決まったが、広島本拠という一案もあった。しかし、船便の発達で、広島はすでに大阪の商域に入っていたから、むしろ直接大阪へ進出する決心を固めたのである。